2013年11月19日火曜日

リス、ブラックベア、白頭鷲  2006年8月17日

朝目覚めると、外は曇り模様。
テントを畳むとキャンプ場のオーナーの家の玄関を叩いた。
昨日の夜、食料の入ったバッグを預けたのだ。
私営のキャンプ場でクマが出る恐れがあるところで
ソフトシェルのテントで泊る場合は当たり前のことだ。
 
 
 食料の入ったバッグを受け取るとキッチンスペースでコーヒーを入れるため湯を沸かす。

朝食の支度をしているとリスがやってきたので、かわいいな、
とその様子を見ていたらマーガリンの入れ物を齧りはじめた。
 
 「コラ!」と私が手で追い払うとどこかに行ってしまったが、
すぐに戻ってきて今度はトーストを持って行こうとした。全く油断ならない。
 
 
いたずら者のリス。リスぐらいならかわいいものだが。。
こういう動物はどこにでもいる。
 
きっとキャンプ場の客にエサをもらっているのだろう。
 
安易な考えでエサをあげてしまう軽率な人間にうんざりする。
ちなみにこの旅の数年後訪れたオーストラリアのタスマニア島では
国定公園の駐車場でワラビーにカツアゲにあいそうになった。
人慣れした野生動物が一番危ない。 
 
 
居心地のよかったキャンプ場を後にし、Portage Glacierへ向かう。
天気は相変わらず、曇りだ。
 
ただ道も舗装路で走りやすく、自転車で走るには悪くなかった。 
 
Portage Glacierに続くトンネルの手前で前からやってくる車が
窓を開けて私に何か叫んでいた。
 
なんだろう?と思っていたが次に来た車の人の声がはっきり聞こえた。
 
"Be careful!Bear!"
 
 
私は思わずブレーキを掛け止まった。 
 
 
クマ! 
 
 
ブラウンか!ブラックか!
 
いずれにせよマズイ。
 
どうしたものか…引き返すか。
道を横切っただけでもういないかもしれない。
いや、むしろこちらに向かってるかも。
 
一瞬パニックになりながらもとりあえず、
サイドバックのポケットからベアスプレーを取り出し、
レインジャケットのポケットに差した。 
 
少し迷った後、結局そのまま進むことにした。
 
 
果たしてクマはいた。 
 
 
 
ブラックベアだ。
 
 
 
なるほど、ブラウンベアとは明らかに違う。背中にコブがない。
何より大きさが違う。遠くてよくわからないがあれは子グマのようだ。

それにしてもあの至近距離で写真を撮っているオッサンは大丈夫なのか?


森から出てきたブラックベアの子供


私がひとりであたふたしている一方で
クマは特に周囲に気にするわけでもなく、悠々としていた。

そのときはさっぱり気が付かなかったが、写真を見るとあのとき周囲に観光客が写真を撮っていたのがわかる。車の観光客はのんきなもんだ。


とはいえ私も写真が撮りたいので、無謀なオッサンのうしろから写真を撮った。
ビビりすぎだとバカにされるかもしれないが、
至近距離で写真を撮っているオッサンがどうかしてるのであり、
これまでクマやオオカミの恐怖の中で旅をしてきた私からすれば、この距離が限界だった。

正直、万が一の際は、オッサンが襲われるのが先だと思っていた。

写真を撮り、カメラをハンドルバッグにしまうとペダルをいっきに踏み、
ブラックベアの前方を通り抜ける。

ちょうどブラックベアのいる茂みの前を横切るとき、茂みの奥にもう一頭見えた。
手前のよりずいぶん大きかった。母クマだろう。

私は興奮状態のままトンネルを抜け、Portage Lakeへ。






Portage Lakeから見える氷河は立派なものだったが、数ヶ月前にニュージーランドのFox GlacierとFranz Joseph Glacierに相次いで登った後だったので、氷河を見た!という感動はあまりなかったが、海に氷河のかけらが浮かんでいるのを見つけて、おぉっと思った。




湖畔のビジターセンターに行く。
ビジターセンターにはクマの警告とエサを与えるなという注意。
それから周辺の街の気象予報。

まぁお約束の光景だ。


赤白の線がスワードHwy。赤の線がJohnson Pass Trail

カウンターの女性にJohnson Pass Trailの情報を聞く。
このトレイルはちょうどスワードHwyから分岐し、再びスワードHwyに戻る道で
帰国までの限られた時間で寄り道にならないいいルートだった。

ニュージーランドではいいトレイルを走ることができたのでもし行けるならアラスカのトレイルも行きたいと考えたのだ。


そこでそもそも自転車で行けるか確認したかったのだ。
場所によっては自転車禁止の場合もある。

「自転車でいけるかって?あなたマウンテンバイク?なら大丈夫よ。」と
その女性はあっさり言った。


いいじゃないか。

私はビジターセンターを後にした。


風はback wind。しばらくいいペースで進む。


河原のビューポイントで川をみると中州に大きな猛禽類が見えた。


白頭鷲だ。




大きい。数百メートル離れているはずだが、
その大きさと無駄のないしっかりとした躯がはっきりとわかる。

アラスカで見ることができるとは全く考えていなかったので
この出会いには単純に感動した。私はこの出会いに感謝した。


しばらくして白頭鷲は翼を広げた。
翼を広げるとさらにその大きさが際立った。

一度大きく羽ばたくとそのまま川の上を低く飛び去って行った。

私は白頭鷲が見えなくなるまで見送った。




Johnson Pass Trailの入口に来る。
道はいわゆる普通のトレイルだ。登山道の入り口といってもいいかもしれない。


荷物満載のマウンテンバイクで数百メートル走っていくと思ったより走りにくい。
荷物がなければいけるような気もするが、この状態では難しそうだ。

いつか純粋にマウンテンバイキングをしにこのトレイルを走りたいな、と思った。
アンカレッジから比較的近くてアラスカ鉄道も走っているから短期間でも行けそうだ。


そう思って引き返そうとすると大きな糞が数個転がっていた。

大きい。ムースかクマか。この際どっちでも結論は変わらない。
「ハイウェイに戻るか」 私はハイウェイに戻った。



その後はハイウェイはしばらく登りが続いた。そして追いうちをかけるように雨が降り始め気が滅入ってくる。

辛いからと言ってペダルを踏むのを止めれば先には進めない。
だましだまし走る。


Summt Lakeというところでレストランがあったので休憩。
コーヒーとチーズケーキを注文する。


数ヶ月前、ニュージーランドを一時ともに旅をしたスイス人が
「シマ、あなたいつもチーズケーキばかり食べているわねぇ」と言っていたのを思い出した。

彼女は今どうしているだろうか。
また手紙を書こう。


レストランで支払いをするとき、チップのことをさっぱり忘れていたが
「釣りはいるか」と店の若い男性に言われ「要らない」と答えた。
こういうどうでもいいことははっきり覚えていたりするものだ。


サミットレイクから今日の目的地Moose Passまでは下り基調。
気合を入れてペダルを踏む。


ムースパスに到着。
キャンプ場での支払いをしようとすると小銭がなくて払えず、
向かいのジェネラルストアで買い物してお金を崩す。
ここは感じの悪い店だった。一日走って疲れたあとにはよくない。

ただ、その前に寄ったリカーストアの年配の女性は感じがよかった。
妹が沖縄生まれらしい。


キャンプ場は森の迷路のような作りで、水場が見つけられなった。
疲れていたので水場はあきらめ、今朝、昼食用に作ったサンドイッチの残りと
インスタントラーメンで夕食を済ませ、ビールとウィスキーの時間へなだれ込んだ。


本格的にアラスカで走るのは明日が最後になる。
天候は相変わらずのようだが後悔しないよう走りたいものだ。

2013年10月22日火曜日

キーナイ半島の自然 2006年8月16日

北極海を離れてからずっと天気が悪かった。
雨は降ったり止んだりを繰り返した。
 
一説には帰国まで断続的に続いたこの雨は日本からの影響という説があるが定かではない。
 
雨の中、ベトベトのままテントを撤収。朝からいい気持ちはしない。
帰国の時にもこのスピナードホステルに泊まる予定だが、
値段も考えると相部屋の宿泊が無難だ。
 

キーナイ半島の位置


残った日程は三日。
アンカレッジからスワードという街までスワードハイウェイを走ることにした。

今回もアンカレッジ中央部から郊外に出るまで一時間以上かかった。
自動車専用道があったりしてハイウェイと自転車の相性が悪い。
横に自転車道を作れば済む話だと思うのだが、そこまで需要はないのだろう。

スワードHwyに乗るまでそのそばを走るOld Seward Hwyを行く。
アラスカの基準でいえば狭い道路だが、交通量もそこそこで行くにはちょうどよかった。



アンカレッジから続く海。極北の海より穏やかに見えた

道はやがてスワードHwyと合流した。
終日曇り空だったが、スワードハイウェイは大都市アンカレッジから観光地に向かう道だけあって舗装はきれいで休憩所も多く、全てが旅人にやさしかった。



何もなく、荒れたダルトンハイウェイを走った後ではなお更そう感じた。


南部と北部では大きく自然が違う、ということに気が付いた。
どちらも自然が濃いが、北部のそれは、短い夏を必死に生きているのが伝わってきたが、南部のそれはもっと大らかな、豊かな自然がそこにあった。

ビーバーの姿が見えなかったがビーバーダムがあった。

川には多くのサーモンが見られた



花が咲いている。
雨にぬれる淡いピンクのポピーの一輪がとてもうれしかった。


道端に咲くポピー


道は途中からバイクトレイルになる。
キャンプ場の横を通るが、閉鎖されていた。

「Go North Hostel」でニュージーランドから来たジョッシュとメレウィンとクマの話をしていたとき、隣にいた男が新聞を投げてよこして「毎年、一人ぐらいキャンプ中にクマに襲われて死ぬんだ。今年はもうキーナイ半島で一人やられたみたいだから今年はもう大丈夫だろう」とあまり納得のいかない説明をしていたのを思い出した。

キャンプ場閉鎖の看板とともに今年の事故についても書かれており、どうやらこのあたりで事件が起きたことが分かった。

 クマは怖かったが、バイクトレイルの周辺はたくさんのラズベリーが実っており、私は夢中になってベリーを集めた。


袋一杯に集まったラズベリー




ベリー狩りを楽しんだ後はひたすら向かい風と戦っていた。

スピードが時速8枚マイルまで落ちる。

キャンプ場手前のクリーク。淡い乳白色の水が美しくて何枚も写真を撮った
キャンプ場入口の橋から。クリークの水は氷河から来るらしい

夕方五時ごろ、当初の予定していたキャンプ場とは違うがちょうどいいところにキャンプ場があったので今日はここに宿泊することにした。

キャンプ場は1泊20ドルと少し高め。
これまでの相場は15ドルぐらいだからちょっと悩む金額だった。
しかし、これまで泊ったアラスカの民間のキャンプ場と比べてもでもここはかなりよかった。
ニュージーランドのキャンプ場はたいていキッチンスペースで水と火、もしくは電気の調理器具が使えることが多かったが、アラスカではランドリーはあってもそうしたことはほとんどなかった。

調理器具はちゃんと持っていたが、ガスカードリッジ(英語ではgas canister)は昨日宿泊したスピナードホステルのフリーラックに置いてあった誰かの使いさしのものを一個持っていただけだったので、ガスの心配をしないのはありがたかった。
 

キャンプ場のキッチンスぺース

チェックインをしてクマの情報を確認する。
このあたりはブラックベアしか出ないが、用心はしてほしいとのこと。
また、食糧のバッグは預かるので夕食が終わったら持ってきてほしいと言われる。
朝は早く食糧を取りに来ても大丈夫らしい。

途中で採ったベリーを見せて念のため食べられる種類か聞くと、ラズベリーとサーモンベリーで問題ないと教えてくれた。


天気は曇りだったが、風があったので今朝ドロドロのまましまったテントを乾かしていると風で飛んで行ってしまい、あろうことか水たまりに着水した。


一日走った後の疲れと相まって、かなりぐったりしたが30分ほどかけてテント全体を何となく乾かした。


私がテントで苦戦している間にファイアーピットにオーナーが焚火を起こしてくれた。
写真で見ると小さいがこのファイアーピットはかなり大きく、オーナー入れてくれる薪がまた大きかった。実にアラスカ的だ。


当日の日記を引用する。
「今、焚火の前で日記を書いているが、実はかなり寒い。吐く息が白い。でもいい時間だ。このままずっといたい。」


実際、フリースを来て、ウィスキー片手に焚火の前に座っていた。そうしていないと寒いのだ。


寒い。でもこの心地よさはなんだろう。
焚火の前にいる。ゆれる炎と時折はじける薪を眺めていると時間を忘れる。
他のキャンパーがたまに通るが、私が自分の時間を過ごしているのを理解してくれるのだろう、「ハイ」と軽く声をかけてくるだけだった。



日本にはなかなかない、静かなキャンプ場。
焚火が気軽にできるキャンプ場は皆無に等しい。
こうやってパブリックスペースにすればいいのに。

もっとも、アラスカのキャンプ場には日本のキャンプ場にない「BEAR WARNING」の看板があるのだが。。


2013年10月16日水曜日

Alaska Railroad 2006年8月15日

旅のスタート、アンカレッジまで戻ることになった。
帰国までの数日間、キーナイ半島で過ごすためだ。

フェアバンクスからアンカレッジまではアラスカ鉄道で移動することに決めた。

バスと飛行機という手段もあったが、
ニュージーランドから帰国する際、
南島の西海岸の果てHaastというところからQueenstownに移動する際に
激しい車酔いに襲われた記憶が新しく、丸一日のバス移動は乗り気になれなかった。
また、飛行機はコストが高いのと自転車の梱包が面倒なのですぐに選択肢から消した。


アラスカ鉄道のBordingPass
いや、それより何よりアラスカ鉄道に乗ってみたかった。


私は鉄道マニアではないが、鉄道の旅は昔から好きで
国内でも学生時代には夏と冬の18切符を使い切るぐらい輪行していた。

とはいえ、アラスカ鉄道に乗るというのは
アラスカに行ったらやりたいことリストではあまり上位ではなかったが
これは経験することができてよかったと思う。


フェアバンクス発アンカレッジ行きは
フェアバンクスを8:15に出発し、終点アンカレッジ到着は20:00。

丸一日の旅だ。


Fairbanks駅


駅のエントランスで


 フェアバンクスの駅でチェックインをする。
自転車は別料金がかかった。ただ、そのまま載せてくれるので面倒がなくていい。


 


列車が走りだした。
日本の列車に比べると走る速度がのんびりだ。

470マイル、750キロを12時間かけていくのだからのんびりだろう。

距離からすれば東京~岡山ぐらいで、
実際新幹線を使わないで行くと同じぐらい時間がかかるようだが
駅の数がそもそも違いすぎる。
アラスカ鉄道は10駅程度しかない。



正直、はじめは遅いと思ってしまったが、日本の鉄道の速さが異常なのだろう。
アラスカ鉄道が観光鉄道ということもあるから当然ゆっくりというのもあるかもしれない。
日本の社会は急ぎすぎだ。

屋根がガラス張りの展望車両


アラスカ鉄道はフェアバンクスからデナリを通り、アンカレッジに至る。
つまり、私がアラスカの旅の前半で走ったパークスハイウェイをほぼ並走するルートだ。
しかし、ときおり現れる建物群がどこの街かわからなかったりすることがある。
鉄道とハイウェイの旅では見え方が違うものだなと思った。



鉄道の旅にアルコールはかかせない

しばらくしてビールの栓をあけた。
これまでの旅について振り返った。

ダルトンハイウェイを走破して、何だがいまいち実感がない。
変な感じだが、実際そうなのだ。

旅の困難をいくつも思い出す。
本当にガムシャラだった。

ただ、北極海へデッドホースに辿り着くことだけを考えて前へ前へ進んだ。
それだけだった。
日本に戻った後、こんなに単純にガムシャラになれるだろうか。

答えは出るわけもなく、車窓を流れていくアラスカの景色を見ながらバドワイザーを飲んだ。


車掌の若い女の子と乗客の老夫婦の会話が耳に入った。
多くのアラスカ鉄道の社員はアンカレッジかフェアバンクスに住んでいるらしい。

また車掌にはアラスカ鉄道の懐中時計が支給されるらしく、
車掌の女性は懐中時計を掲げて見せてくれた。
なんだかうらやましい仕事だな。

ふと冬のアラスカ鉄道にも乗ってみたいと思った。



列車がアンカレッジに着いた。
白夜が終わったとはいえ、アンカレッジは午後8時でもまだ日暮れといった感じだ。

初日と同じスピナードホステルを予約してあったので自転車で向かう。


途中、自動車専用道路を避け自転車道を行くが途中で道がなくなる。
階段をなんとか自転車を押して降りていくと 公園に出てた。


そこでムースの親子に出会った。



 さすがだな。
大都市の真ん中でムースが普通に木の葉っぱを食べている。

この時間の迷子には参ったが、おかげでいいものを見ることができた。
これで出会っていない大型動物はブラックベアとジャコウウシぐらいだが、
ブラックベアには会わなくていいな。


少し迷子になったもののスピナードに到着。

スピナードでは今回、部屋ではなく、
庭のキャンプサイトに泊ることにしたが
地面が泥でテントが汚れてしまった。これで19ドルは高い。
帰国前は前のように相部屋を取るべきだな。


少し天候がよくないが明日からのキーナイ半島の旅を楽しむことにしよう。



2013年10月13日日曜日

再会と出会い 2006年8月13日~14日

Fairbanksに滞在した二日間、記録がほとんど残っていない。
あいまいな記憶を探りながら書くことにする。

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朝早く、渡辺さんはネーチャーイメージの牧栄さんに連れられて旅立って行った。
良い旅を。
渡辺さんはこのあと壮絶な旅をすることになる。
詳しくは渡辺さんのブログで
 http://yukon780.blog.fc2.com/category13-2.html


アリーとレオは朝早く帰国の途に就いた。
老練のサイクリストたちは笑顔で去って行った。
私もあんなふうに自分より若い異国のサイクリストに笑顔で話しかけ、
さりげなく励ますことができるだろうか。


私はダルトンハイウェイから戻った後のことをほとんど考えていなかった。
帰国のフライトは8月20日。

まだ1週間ある。
「Go North」のキッチンに少々高いがカヌーツアーの案内があったので
電話してみるがつながらない。一応留守電を残す。


どうしようか。


帰国はアンカレッジからなのでどのみちアンカレッジには戻らなくてはならない。
一週間で東のリチャードソンハイウェイ回りで自走でもどるか、バスを使うか、
はたまたアラスカ鉄道で一日かけて戻るか。
何も決まらぬまま時間だけが過ぎた。

ワイズマンの宿で作った食事。鮭をフレークにしてご飯に載せた



その日、また「Go North」に日本人がやってきた。
キッチンで出会ったその人は写真家の松本茂高さんだ。
〔松本さんの写真ブログhttp://shige0504.blogspot.jp/ ホームページhttp://blog.spiritbear.jp/〕

聞けば、mont-bellのカタログや『カヌーライフ』に写真が載っているらしい。
すごいな。


松本さんはザックから小袋に分けられた食糧をとりだしながらそんな話をしてくれた。

些細なことだが、きちんと小分けされたふりかけや調味料を見て
松本さんが本当に旅慣れた人だとすぐわかった。

衣食住を背負って旅をするには、荷物のパッキング術というのも非常に重要である。
どこに何が入っているのか、重さのバランスがいいか、きちんと分けてあるか、など。

そうした基本をちゃんとやっていくことが
疲れた時に食事を作る時などにも体への負担を少なくし、トラブルを軽減させることになる。

食糧を小分けにしたりするのは面倒だが、重要なことでもあるのだ。


アラスカやカナダを何度も訪れているという松本さんはいろんなことを教えてくれた。

アラスカの北部は火災が森を育て、南部は風、倒風木が森を作ること、
カリブーや狼の季節移動にも南北の風土の違いが見て取れること

南北の異なる世界がアラスカという一つの統一的な自然を形成しているということ。


松本さんに私があと一週間時間があると相談するとアンカレッジの南、キーナイ半島を薦めてくれた。
移動時間などを考えてもちょうどいいかもしれない。
キーナイ半島に行く方向で動き出した。

アンカレッジの道端で。夏のアラスカの街は驚くほど花が多い。


午後から買い物へ。
ビーバースポーツという大型のアウトドア用品の店に行く。

うわさには聞いてたがほんとうに大きな店だった。


ビクトリノックスのVoygerというモデルが37ドルになっていたので購入。
それからダルトンハイウェイで失くしたサングラスの代わりに
新しいオークリーとケースも購入。このケースはいまだに現役である。

ビーバースポーツをうろうろしていると見覚えのある男とすれ違った。
Coldfootでガスカードリッジをくれた男だ。


お互い、顔を見合わせ、次の瞬間大きな声を出した。


「ワオ。元気だったか。ガスは役に立ったか。無事に北極海まで行ったのか?」
 彼は矢継ぎ早に話し出した。

これから彼は東回りでアンカレッジまで自転車で行くという。

私は無事にデッドホースまで行ったこと、
ガスはおかげで十分足りたことを伝え、何度もお礼を言った。

となりにいた新しい相棒を紹介してくれた。
こちらで知り合った男らしい。
こういうのも楽しそうだ。

アラスカは人がいる場所は限られているとはいえ、
こんなことがあるなんて感激だ。

結局、彼の名前は知らない。だが、彼のことは一生忘れないだろう。

左がフェアバンクスで再会を果たした男。彼はいま何をしているだろうか。



ダルトンハイウェイへ向かうとき、人生のアドヴァイスをくれた日本人女性に会いに
インフォメーションに行くが、今日は不在。休みらしい。
今日は日曜日だ。

日本に北極海から無事に帰った報告をメールでしようと図書館に向かうが、
当然のように休み。

だが、さすがに日本のカレールーまで扱う超大型スーパー「フレッドマイヤー」は
ちゃんと営業していた。

晩御飯にクラムチャウダーを作ることにし、ベーコンなどを買う。

「Go North」に戻り、夕食にクラムにチャウダーを作る。
見た目はマズマズの出来だったが、ベーコンの脂がよくなかったのかしつこくなってしまった。


さしてうまくないスープをも飲みながら、
そろそろ帰国を考えて残りの食糧などを計算しなくてはならないなと思った。
帰国まで一週間だ。




夜、松本さんとKさんと焚き火を囲む。
一時、日本のうまいものトークになってしまったが、
松本さんの過去の旅のことやフォトグラファーとしての暮らしなど
いろいろな話が聞けた。

アラスカを人生の基軸に据えて生きる人の話を聞くことができて心が震えた。 
本の中の出来事でしかなかったことを実際にやっている人がいる。
私は人生を自分の力で切り開いている人に会って心から尊敬の念を覚えた。

帰国後、松本さんにメールを送ると次にような返信をくれた。

「ブルックス山脈を10日間縦走しました。
トレイルも何も無い山域を藪漕ぎしながら進んでいくとてもハードな旅でしたが、
身も心も洗われる素晴らしい旅となりました。」
 
ブルックスに独りで入っていく。
私はその苦労を想像する一方でとてもうらやましく思った。 
 
フェアバンクス郊外のパイプライン
翌日、 再びインフォメーションセンターに行き、
恩人の日本人女性と会うことができた。
彼女は前に来た時ほど多くを語らなかった。

彼女は北極海まで行ったことへの賛辞を口にして少し話したが
しばらくして彼女はほかのお客に呼ばれて行ってしまった。
彼女にには私がもうなんとかやっていけることがわかったのかもしれない。


 
インフォメーションで私は明日のアラスカ鉄道を予約した。
松本さんと話してアラスカでの数日間を南部のキーナイ半島を旅することにしたからだ。
明日、鉄道でアンカレッジに戻り、そこからキーナイ半島をスワードまで行き、
再びアラスカ鉄道でアンカレッジに戻り帰国の途に就くことに決めた。 

 
その後図書館へ行き、日本へ生存報告と帰国時の迎えのお願いをした。
幸い大学時代の後輩が快諾してくれセントレア空港まで迎えに来てくれることになった。
自転車があるとおいそれと帰れず何かと不便なのだ。
 
それから『Milepost』のコピーをとらせてもらう。
私の発音が悪くて『Milepost』が伝わらず、
紙に書くと「あぁ」と図書館の人はすぐに持ってきてくれた。
ホント英語力なんとかしなきゃな。 
 
ダルトンハイウェイのヤナギラン群生地
 
「Go North」に戻るとオフィスの人が
「おお、日本人のサイクリストは君か。カヌーツアーのことで電話があったから
電話かけてやってくれ」と教えてくれた。
 
 
カヌーツアーのところへ電話し
「今回は予定が合わなくなってしまったから、
次にアラスカに来るときにはまた連絡するよ」と伝えた。
 残念ながらまだ「次」が来ていない。

「次」はぜひ家族で「Go North」に宿泊し、カヌーツアーに行きたいものだ。
 
 

2013年9月25日水曜日

北極圏からの離脱 ‐ 再びGo Northへ 2006年8月12日

寝不足のまま、朝を迎えた。

 

朝食が7時までということで早起きは辛かったが、レストランで朝食を済ませる。
食事はビュッフェスタイルだった。あまり食欲はなかったが一応食べた。

このホテルは石油採掘関係の労働者が多く使うらしく、
通路など至るところに作業服などがかけてあった。

 
そうした労働者たちのランチのテイクアウト用だろうか、
レストランにはサンドイッチなどの包みがいくつも置いてあった。
 朝食を摂ると、包んであったサンドイッチ、マフィン、ポテトチップスの袋を2個ずつ貰っておいた。 ほんの思いつきだったが、のちにとても役に立った。


部屋に戻る。
泊った部屋はせまいシングルルームだった。
仕事で北極海まできて、一日働いた後、
この小さな部屋で故郷へ帰る日を指折り数えるのはどんな気分なんだろう。
 
 
昨日空港で助けてくれたテリーの少し寂しそうな顔を思い出した。
部屋の小さなテレビをつけるとCNNがずっとイギリスのテロのニュースを繰り返し流していた。
 
私はそのテロが未遂ということに気がつくまで随分かかり、
どうして犯人逮捕の映像ばかりで被害者や現場の映像が出ないのだろと
不思議に思いながら画面を眺めていた。
 
テロの影響で飛行機の手荷物に水の入ったボトルが持ち込めなくなったのを昨日の朝、
アリーが教えてくれた。そして、リップクリームなどもどうやらだめらしいと付け加えた。
 
 
その後、アラスカエアの窓口で確認したら
念のために判断に迷うようなものは持ち込まないでと窓口の女性が言っていたが、
彼女自身も困っている様子だった。



 
 

 
簡単に荷造りを済ませて、ホテルのフロントに行く。
空港まで送ってもらうことになっていた。
 
 
空港に着くと多くの人でにぎわっていた。
昨日私の窮地を救ってくれたテリーもカウンターの列に並んでいた。
私を見つけると微笑を浮かべて小さく手を振ってくれた。
私は帰国後、彼にお礼の手紙を書いた。
 
空港の建物の端でアリーとレオがゆっくり荷造りをしていた。
とっくにチェックインの時間を過ぎているはずだが、
のんびり作業をする彼らを見て、旅慣れた男たちはさすがだなと妙に感心した。 
 
今日は無事にチェックインのコールがかかり
アリーたちと話しながら飛行機に向かう。
 

アラスカエアの機体に描かれたイヌイットを見てアリーが
「おい、シマ。あれはチェ・ゲバラか?」と言ったので笑ってしまった。
実は私もそう思っていたのだ。



飛行機の中で久しぶりの冷えたビールを飲む。
ビールは別料金で5ドルだったが、100ドル札しか持っていなくてスチュワードの男性に迷惑をかけてしまった。

アラスカエアはビール別料金5ドル
デッドホースからフェアバンクスまで1時間ほどのフライトだった。
さんざん苦労して自転車でやってきたが、飛行機に乗ってしまえばあっけないものだ。


フェアバンクス到着。
しかし、荷物の一部、というか自転車が別便で来るらしく届かなかった。
アラスカエアの女性に確認すると、宿に送るから泊るところを教えてほしいという。
私は「Go North」の名を告げた。女性はすぐわかったようだった。

アリーとレオはロサンゼルス経由でオランダに帰るらしい。
ロスまでのフライトに少し日があるようだ。
彼らはまだフェアバンクスでどこに泊るのか決めていないらしいので、「Go North」をすすめ電話番号をおしえてやると早速予約していた。


空港を出ると外は雨。
雨はさほど問題ではないが、自転車がなくてはGo Northまで行けない。
仕方ないのでタクシーを拾った。


タクシードライバーは別のホテルと間違えていたが、なんとか「Go North」に着いた。
前回泊った時からわずか10日余りだが、「Go North」に戻ってきてなんだか嬉しく、そしてほっとした。


今回はテントサイトにテントを張った。
雨が降りやまず、食事はどうしようかとキッチンでボーっとしていた。
昼食に朝もらってきたサンドイッチなどを食べた。

キッチンの外の軒下で雨を見ていると
ベンチに座った男性に話しかけられた。

「日本人だよね?」

その人は名をケンジさんといい、ユーコン川をホワイトホースからサークルまで
カヌーで下ってきたらしい。すごいな。
聞けば日本人のパドラーは多いらしい。

「なぁ、ビール飲む?バドならあるよ」
私は遠慮せずもらった。

今思えば、ああして「Go North」で昼間からビールを飲みながら
雨を眺め、旅する人と話をするなんてなんて自由な時間だったんだろうか。


ふいにケンジさんが言った。
「ねぇ、カレー食いたくない?うさん臭いのじゃなくていわいる普通の日本のカレー。作らない?」

「いいですね。料理には少し自信があります。きっとあの巨大なフレッドマイヤーならカレー粉も手に入るんじゃないですか。」私は即答した。いいアイディアだと思った。


雨が弱くなるのを待って、二人でフレッドマイヤーへ行く。

カレー粉はアジア系食品のコーナーにエスビーのカレー粉があった。
「あった!!」二人で大きな声を出してしまった。

そのほか野菜と肉売り場でキチンを買い、フレッドマイヤーを後にした。


ケンジさんは米炊きには自信があると言い、私はカレーを作った。
明らかに二人分より多かったが、まあいいだろうということになった。

雨がやんだのでファイヤーピットで焚き火を囲んでカレーを食べる。
うまい。当り前か。

そのままさしてうまくないバドワイザーを飲んでいると
もう一人日本人がやってきた。
 

まだ夕食を食べていないという。

「キッチンにカレーとご飯あるからレンジで温めて食べなよ」
ケンジさんが言うと、感激してキッチンに消えていった。

その日本人を加えてさらにバドを飲んだ。

その日本人男性は岡崎出身で渡辺さんと言った。
聞けば、私がスタッフで参加した野田知佑を招いたイベントに参加していたらしい。
それは参加者わずか30名程度のイベントだったのだが
まさかその参加者とこのアラスカで出会うとは。

渡辺さんの住まいを場所を聞くと、だいたいすぐにわかった。
「あぁ、五味八珍とかあるへんですね。」と私が言うと
「ギャー、アラスカくんだりまで来て『五味八珍』とか言われちゃったよー」と渡辺さんが叫んでいた。
悪いことをした。。

渡辺さんは今日寝坊してしまい途方に暮れていたが、
私がダルトンハイウェイで会った「ネーチャーイメージ」の牧栄さんがなんとかしてくれるらしい。

渡辺さんのブログから転載。右が渡辺さん。

※渡辺さんもまた自身のブログに当時の様子を書いている。こちらもぜひ見てほしい。
http://yukon780.blog.fc2.com/category13-2.html

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三人でファイヤピットで焚火を囲み、さしてうまくないバドワイザーを飲み続けた。

誰かが探るように聞いた。「ねぇ、遺書って書いた?」

「書きました。」私は答えた。


そう、
死ぬ気はさらさらなかったが、
もしかしたら死ぬかもしれない、本気でそう思ったのだ。

私は家族と友人と当時好きだった女性に遺書を書いた。

「もし、私が自分の求める極北の地から戻らぬことがあるならば伝えて欲しい、、、」

そんな書き出しで始まる遺書だった。内容はさしてない。
あのとき、もう失うものは何も無かった。
ただ、伝えきれぬ想いを伝えることが出来るなら、そう考えたのだ。

遺書は必要なくなった。

死の恐怖に直面したが、私は生きて極北から戻ることができた。

「なんとなく、こう、もしかしたら、ってあるじゃん。
だから会社の後輩には全部引き継ぎしてきたし、彼女にも遺書書いたよ」
誰かがそう言うのが聞こえた。

アラスカの荒野に向かう人はこうした覚悟を誰しももっているのだ。

「知らない人からしたらバカばよね。でも、ねぇ?」
その言葉に私達は深く頷いた。

友人達に「なに、生きて帰るさ」と軽く言ったものの、
実際は自分が死ぬことも視野にあった。だからこそ、遺書を書いた。


「バド終っちゃたな。おれジャックダニエルあるんだ。もってくるよ。」
ひとりがそういって席を立った。

私は薪をくべ、炎を見つめた。


今なら笑い話だ。
でも当時、アラスカにいたときは本気だった。
ただ少なくとも当時の私たちにはそのぐらいの覚悟があったんだと思う。