2013年12月29日日曜日

新たな旅 Tasmaniaへ 2008年12月11日~12日

アラスカの旅からおよそ2年半。


私は再び旅に出ることにした。
どこに行くべきか、いや、どこに行きたいか。

行き地場所はたくさんある。

北欧、カナダ、アラスカ、ニュージーランド、アイルランド、モロッコ、タスマニア、パタゴニア、キューバ・・・
あげれば切りがない。

どこなら行くことができるか。

行くのは12月から1月。北半球の冬の時期。
行くならまた自転車の旅がいい、いや自転車以外で海外をどう旅していいかわからない。
そう思うと雪に覆われる北欧、カナダ、アラスカは却下。

残った地域の中でアイルランド、モロッコ、タスマニアの3つに絞り、
各地域の『lonely planet』をアマゾンで購入した。

『lonely planet』はおそらく世界中のバックパッカーが使っているガイドブックで
『地球の歩き方』の数百倍役に立つ。
残念ながら『地球の歩き方』には街のキャンプ場の情報は載っていないし、小さな町の情報も書かれていないことも多い。


英語があまり得意ではないのでイントロダクションだけざっと読んで考えた。


モロッコは砂漠とあって大変そうだ。
街から街の距離、風、水の補給、トラブル時の対応など心配要素が多い。
困難があるほど燃える冒険者タイプの人もいるが、私は決してそうではない。


アイルランドは私の大好きなビール「キルケニー」とジャック・ヒギンズが愛するウィスキィ「ブッスミルズ」の国だ。

ぜひ行きたい。

しかし、気候のデータを見ると驚くほど雨が多い。

・・・雨か。

自転車旅での困難は峠よりも雨であると思う。




結局、私はどんな旅がしたいんだろう。

海外のツーリングも3度目。
自分の力量もよくわかっている。

自分らしく自由を振り回して旅ができるところ。





やはりタスマニアだ。





かつてニュージーランドをしばらくともに旅したスイス人サイクリスト、ダニエルが
 「シマ、ニュージーランドもいいが、タスマニアもベリーナイスだ。おれは7回も行ったぞ」っと言っていた。これがずっと気になっていた。

ダニエルは当時40代のベテランサイクリストで
毎年冬になると自営のぺインターの仕事を休業し、自転車の旅に出るというつわものだ(注:独身)。

昼間からビールを飲むサイクリスト ダニエル。ビールはソフトドリンクだそうだ。


彼はニュージーランド7回、タスマニア7回、キューバ、パタゴニア、オーストラリア本土、カナリア諸島などを旅をしており、彼のことを考えているうちに彼が薦める場所に行ってみたいと強く思うようになった。


「夏のタスマニアでタスマニアワインを飲みながら、オイスターを食おう。」


私は決めた。
オーストラリアの南に浮かぶタスマニア島へ行こう。
私が尊敬するサイクリストの一人が最高というその島へ。

南半球でクリスマスを過ごし、旅先から年賀状を書いてやろうじゃないか。
私は準備を始めた。我ながら準備は順調に進んだ。

******************************

一番安いエアチケットだったキャセイパシフィックを取ったが、
いきなりチェックインで荷物の追加料金を取られた。
前回アラスカの出国時に痛い思いをしたので手荷物をかなり増やしたがダメだった。
24,000円取られる。
いきなり現地での一週間分ぐらいの滞在費が消えた。。。

当然の出費で飛行機に乗る前のビールは我慢したが、
飛行機に乗ったあとはいつも通り飲んだくれであった。

香港の空港でビールを飲みながら日記を書く


キャセイは安かったが、台北、香港でトランジットし、機内食は4食食べた。
2006年に行ったニュージーランドより飛行機で過ごす時間がしんどい。
とにかく早く着かないかなとそればかり考えていた。
日本から持ち込んだ隆慶一郎の『かぶいて候』はすぐに読んでしまった。
東野圭吾の『宿命』は読まずに我慢した。


日付が変わってシドニー着。シドニーは雨。
例のごとく入国で時間を取られる。
出国前に某メカニックの方から
「オーストラリアに行くならタイヤの泥とかは極力落とした方が入国時にトラブルにならない」と言われており、タイヤをきれいにしておいたおかげで特に指摘されなかった。
食糧も持ち込んだがうるさく言われなかった。



シドニーからはカンタスでタスマニアの州都ホバートへ。


飛行機から眼下にタスマニア島が見え、気分が高ぶってくる。


新しい旅が始まる。


『lonely planet』より。タスマニアはオーストラリア南に浮かぶ島


ホバートに到着。


予約してあるユースホステルに行くため、
シャトルバスのドライバーに行き先を伝える。


しかし、私の荷物が出てこない。
待っているとアナウンスがかかり、呼び出される。

自転車を入れた段ボール箱が壊れたらしい。

シドニーでちらっと私の箱らしい荷物が雨の中、
フォークリフトで運び出されているのが見えた気がしたのだが、
どうもその結果段ボールが壊れたようだ(真相は不明)。

どうしてくれるんだと聞くと、今カンタスの段ボールに入れ替えているから
待ってくれと言われる。




さらにしばらく待つとカンタスの箱に入った自転車が出てきた。
カンタスはバイクボックスも持っているのかと妙なところで感心した。

しかし、カートがなくて運べずに困っていると
なかなか来ない私を待っていてくれたシャトルバスの運転手のおじさんが
手伝ってくれた。


タスマニア州都ホバートはタスマニアの南部に位置する

バスの車窓から見えるタスマニアの景色はニュージーランドのようで
なんだか懐かしく、うれしかった。
ニュージーランドを旅していた頃、よく「タスマニアはニュージーランドみたいだよ」という話を聞いたのを思い出した。

しかし、それは自転車以外の方法で旅をする人の認識であることを思い知ることになる。




バスが予約した宿に着いたが、私が気がつかないでいると
「おまえここだろ?」と男性の乗客が教えてくれた。

彼はバスを降りて、自転車の段ボールを運ぶのを手伝ってくれた。

まったく、人の助けがないとなにもできない。



宿はバーを併設しているユースホステルだ。


タスマニアというかオーストラリアがそうなんだろうが
昔の名残でパブが宿をやっているケースが多い。

これはかつて遅くまで酒を出す店は宿泊出来ないといけないと法律で決まっていたこと何かで読んだのを思い出した。

部屋に荷物を運び込む。
なんだかやたらと複雑な作りの宿である。

二階の一番奥の8人部屋だった。
この手の宿はドミトリーと呼ばれ、安いが相部屋でベッド一つが割り当てられる。
日本では男女別だが、タスマニアでは男女関係なく同じ部屋だ。
食事は共同で使えるキッチンで食材を持ち込んで勝手に作ることができる。

私はベッドに荷物を置いて食料のバッグを持ってキッチンに向かった。
私のベッド

サーフボードを持ち込んでいたのは日本人だった



階下のキッチンに通じるドアを開けると
なんともいえないスパイスの混ざったような香りが漂ってきた。



「あっ、キッチンのにおいだ」



ニュージーランドをともにしばらく旅をした友人のルティア(彼女もスイス人だ)がユースホステルに泊まったことがないという人にユースのキッチンの様子を話していたのを思い出す。


「ああいう宿はキッチンがあって、いろんな国からきた人たちが同じキッチンでいろんな料理を作るのよ。
とってもスパイシーな香りがすると思ったら、甘い香りが別のなべから漂ってきたりして。
それでよく同じテーブルになった他の人と情報交換したり、お互いのことを話したりするの。
おもしろいからあなたも一度泊まってみればいいわ。」



何のにおいかははっきりしない、「ユースのキッチンのにおい」。
甘いような気もするし、ガーリックの香ばしい香りもする。
それ以外に何か分からないにおいも混じっている。

空港で否応なしに英語の会話を始めた時から
外国にきた、という感じはした。

しかし、キッチンのにおいをかいだとき、
「あぁ、おれまた旅に来たんだ」という実感が初めて湧いた。

キッチンに入ってそこにいる人に「Hi」と軽く挨拶して、
キッチンの設備、皿やグラス、鍋やカトラリーを確認したり、
旅人が不要になった食料を置いていく「FREE FOOD」のラックを確認したり。

なんだかそのすべてが懐かしかった。

そしてその懐かしさが再び一定の日常になるのにさして時間はかからなかったと思う。



シドニーからホバートの便が予定より遅れたため、宿には夕方到着した。
予定ではもう少し早く着く予定だったので、
その日の食事ぐらいは買いに出るつもりだったが、億劫になってやめてしまった。
食事はフロントで売っていたインスタントラーメンになった。


キッチンには日本人女性がいた。話しかけるか迷ったが、
他の日本人女性とワーホリトークを日本語で始めたので、話しかけるのをやめた。
初日からこれは鬱陶しかった。


部屋に戻ると部屋にはひとりだけ客がいた。
隣のベッドの韓国人女性だ。

名前をSunnyといい、27歳。韓国でLGに勤めていたが、
今は自分の時間を過ごしているらしい。Sunnyによれば彼女のような韓国人が増えているらしい。なんでもオーストラリアはビザが取りやすいそうだ。

 「働いていた時は休みなんてなくて、今は自分の時間を過ごしているの」

そう言って笑った。
それからお互いのこと、日本人と韓国人について、彼女のタスマニアでの出来事、英語についてなど旅行者同士のお約束的な話をした。
 
彼女は明日の早朝、帰国するらしい。
私がタスマニアのオススメを聞くと
「フレシネ国立公園のMt.アモスから見るワイングラスベイが素敵よ」と教えてくれた。
私は最初の目的地をワイングラスベイに決めた。

モンゴメリーYHAで同室になったSunny


彼女の話で印象的だったのは"favor"についてだった。


「あなたも他の人に"favor"をしなきゃいけないわ。こうやって旅人同士の助け合いの輪が広がっていくのはとてもいいことだと思うの。」

英語がロクに話せない私は"favor"の意味がそのときはわからなかったが、
「援助、親切」という意味だというのを辞書を引いてわかった。



彼女は自分にはもう必要ないからとホバートの地図をくれた。



今回の旅が多くの"favor"のおかげで素晴らしいことになることをこのときまだ私は知らない。




明日は雨らしいが、ホバートの街を回って食料や地図を買って旅の支度を整えよう。
明日はいい日になりますように。


2013年12月5日木曜日

帰国  2006年8月19日~20日

スワードからアンカレッジに戻り、いよいよ帰国となった。

街が動き出す時間を考えながらキッチンで朝食を作る。

日本から持ち込んだタラコスパのソースが残っていたので
朝からタラコスパを作って食べた。

前回ニュージーランドを旅したときに無性にタラコスパが食べたくなって
テントの中で悶絶したことがあったので、
今回はたくさん持ち込んだが結局残ってしまい今日食べることになった。

米も残っていたので炊いて昼ごはん用におにぎりを4つ作った。



おにぎりをバッグに入れて外に出る。
なんと外は晴れていた。久しぶりの晴れでテンションがあがる。

アンカレッジの街

自転車で市街へ。
土産物屋をいくつか回り、家族や友人に土産を買った。
「カンアラスカン」という日本人の経営する土産屋でオーナーの女性と話す。

「今年は何十年降りの異常気象で大雨が降ってねぇ。アラスカに来て長いけどこんなの初めてよ。ウィローのあたりじゃ橋が流されたそうよ。」

ウィローはアンカレッジ近くの街で私が最初に泊った街だ。
信じられない。


その頃、フェアバンクスで会った日本のある旅人が窮地に陥っていたのを知る由もなかった。(参考ブログ:http://yukon780.blog.fc2.com/blog-entry-138.html


カンアラスカンの後、ネイティヴアメリカンの店で買い物をするとレジの女性が
「どこの出身?」と聞くので「日本だよ」と言うと「私たちに似ているからネイティヴかと思ったわ」と言われた。

一時ネイティヴアメリカンの思想に傾倒していた時期があったのでなんだか嬉しかった。
ただ、日焼けしてそう見えたただけかもしれないが。。

気になって撮った写真

最後にR.E.I.に行く。
帰国に際し、自転車梱包用の段ボールを手に入れるためだ。
R.E.Iは大型のアウトドアショップでキャンプ用品はもちろん、カヌー、自転車、浄水器まで何でもある。
ここで発売間もなかったPolarの保冷ドリンクボトルと安かったボトルゲージ、それから日本未発売のパワーバーを大量に買った。
レジの女性に「パワーバーたくさん買うのね。」と笑われた。

「日本じゃ2種類しか売ってないんだ。珍しくてね。」と言っておいた。

それから自転車の箱を欲しいと言うと、自転車担当者だろうか若い男性がGiantの箱を持ってきてくれた。しかし厚みがなくて心配なったので「申し訳ないが、荷物多いんだ。もっと大きいのくれ」というとR.E.I.オリジナルの厚さのある箱を出してくれた。

前回ニュージーランドで箱代をとられたのでいくらか聞くと
「ハハ、要らないよ」と言ってくれた。

R.E.I.にいた賢い犬。入国直後の写真

昼食に用意したおにぎり4つは早々に食べてしまった。
宿に戻ってパスタを茹でて、夜またパスタを食べた。4食目は多いかと思ったがぺろりと食べてしまった。しかもパスタは全部タラコである。

残った食糧は宿のフリーラックに置いていけばいいが、タラコソースなど置いていっても困るだろうと思い、頑張ってしまった。妙なところで気を遣ってしまうものだ。

自転車で旅をしていたせいで体が異常に食べ物を求めてしまう。太らないか心配だ。



************


いよいよ帰国の日。
早朝起きて、朝食を作って食べる。
時間があったのでリビングでぼんやりテレビを見ていると
一人の男性が話しかけてきた。

アラスカの住人でこれからフィリピンでバカンスに行くという。
私と同じく今日のフライトだそうだ。彼は楽しそうにいろいろ話してくれた。
このスピナードホステルは空港から近いので地元の人も利用するらしい。


R.E.I.でもらった大きな段ボールを折りたたんで小脇に抱えたまま自転車で空港へ向かった。
空港の玄関横で自転車を分解し、段ボールに詰めていく。

自転車と段ボールの隙間には寝袋などをつかってクッション代わりにするのを忘れない。
普通よりも大きい箱を貰ったおかげで作業はすんなり終わった。



自転車の入った大きな段ボールを持ってKorean Airのチェックインカウンターへ。
スムーズにいくかと思ったチェックインだが、荷物が重いから追加料金を払ってほしいとKorean Airの若い女性に言われる。

「No,行きも自転車を持ってきたけど追加料金は払ってないよ」私は珍しくきっぱり英語で言った。

すると女性は奥に消えていき、代わりにゴツイ見るからにベテランのマダムが出てきた。
いやな予感がする。。


現れたマダムはすごい勢いで端末をたたいたかと思うと、グイッと顔をあげて私に言った。


「あなたの行きの荷物は26キロ。で、今は36キロ。行きより10キロ重いわよ。300ドル追加料金いただきます」

ぐうの音も出ないとはこのことである。私は即座に訊いた。
"Can you accept credit cards?"

"Yes,sure"マダムは私の差し出したクレジットカードを無表情で受け取った。完敗であった。


10キロ増。。土産はそんなに買った覚えはないが自転車を梱包した箱が大きいのをいいことに調子に乗って荷物のほぼ全部詰め込んでいたのだ。
はぁ。土産だって300ドルも買ってないぞ。


私は落胆したまま出国手続きを済ませ、免税店を見ていると日本人に話しかけられた。
どうやらチェックインカウンターで私の後ろに並んでおり、あのやりとりを見ていたらしい。

「結局いくら取られたの?300ドル!うわー、ついてないねー。行き先一緒だったら、私の荷物分シェアしたのに」

その手は考えなかったな。全く迂闊であった。
この痛い教訓はのちに生かされることになる。

この日本人の方は福岡に帰るとのことだったが、そのほかにも大阪に帰ると言う人もいた。
私が乗ったKorean Airはインチョン空港まで飛んで、日本人はその後日本各地に飛ぶようだ。なるほどハブ空港だ。



飛行機に乗り込む。不思議な気分だ。
旅が終わる。アラスカの旅はガムシャラだった。興奮のうちに終わったと言っていい。

やがて飛行機が飛び去った。
眼下についこの間までいたキーナイ半島が見える。

感慨が深すぎて自分の中で処理しきれていない。
ただ、またこの大地を旅したい、そう思った。



************

アラスカの後、以前から自分の夢だったCafeをやっている外食企業に就職したが、しばしば15時間を越える勤務に体重をかなり減らしてしまい、1年で辞めてしまった。

その後、多少回り道をしたが、なんとか再々就職をすることができた。



 アラスカの旅が自分にとって何であったのか。


いまだによくわからない。
その直後はその経験が強烈過ぎて自分でもうまく消化できずにいた。


ただ、あれからずいぶん経って、自分の家族を持つことができるようになった。
経験の割に平凡だと思うが、あの経験の上に今の生活があると思うとそれで十分に思える。


目をつぶると、今でもすぐに思い出す。
360度自分の回りを取り囲むツンドラの中にいるところを。
カリブーが蹄で水をピシャピシャ音を立てて走っていくのを。


いつかまた、あの世界を旅しよう。
世界の大きさを体感し、自分が解き放ち、野生動物の気配におびえ、自然と対等になり、ただ自分が生きていることに感謝するアラスカの大地を。


あの景色を生涯忘れることはないだろう。








2013年11月30日土曜日

スワード 余韻の旅 2006年8月18日

雨の一日だった。

幸いキャンプ場を出るまではあまり降られることなく助かった。
雨の中、濡れたテントを撤収する作業は本当に大変である。
濡れたテントは畳みにくいうえ、その作業だけでずぶ濡れになるのは必至だ。
 また、それで一日が始まるとなるとその日のモチベーションが下がってしまう。

キャンプ場を後にするとその後は降られっぱなしだった。
さらに風は向かい風。
道は思ったより上ることなく、下り基調で助かった。

途中、ハイウェイの横にあったトイレの軒先で休憩。
レインウェアのポケットに入れてあったキャラメル味の小さなナッツバーを数個口に放り込んだ。


余談だが、ニュージーランドのスーパーでは
箱に5,6本入ったミューズリーバーがよく売られていて、補給食として非常に重宝したが、
アラスカではそうしたものはあまり見かけなくて、
小さめの個包装されたスニッカーズのようなものしか見つかられなかった。

このときもそうしたカロリーの高いお菓子をポケットに入れていた。
甘い甘い味が口に広がる。
甘すぎる味が走るエネルギーとなって体に満ちていくようで走る気力がわいてくる。


ポーテジグレーシャーのポストカード。どうしてアラスカのポストカードはロゴがダサいのか。



今日スワードに着けば、夕方の列車でアンカレッジに戻る。


自転車でアラスカを走るのは今日が最後なのだ。

とはいえ、弱いとは言えない雨の中だ。

冷えた体は正直である。
自転車の旅が終わってしまうというという想いよりも
早くスワードの街に辿り着きいという気持ちの方が強かった。



雨の中、走り続けていると靴のクリート(ぺダルを靴とを固定する金具。靴の裏にある)から水が入ってきて靴の中がベチャベチャになってきた。
その上、シューズカバーとレインパンツの間から浸水してきた。
当時出たばかりの自転車用のゴアッテクスシューズの上からシューズカバーをしていても2時間雨の中走り続けていればこんなものである。

手袋も普通のグローブの上から雨用のモンベルのオーバーグローブをしていたが、これもダメだった。ないよりはマシ程度といったところか。

雨の中を走るのは大変である。
それでも走らなくてはならない人はレインギアにはちゃんと投資をしてほしい。






スワード手前、最後の6、7マイルが工事をしていて走りにくかったが、スワードには思いのほか早く到着した。

まずは食事だ。
レストランに入り、時計を見ると11時58分。
雨の中、30マイルを3時間弱ならいい内容だろう。

食事はハリバットバーガーを食べた。


ハリバットは巨大なヒラメと思ってもらえればいいだろう。

スワードはスポーツフィッシングが盛んらしく、巨大なハリバットと映っている写真をよく見る。
この手の写真をスワードでよく見る。web上より転載

バーガーの味はまぁフィレオフィシュだ。
結局アラスカではシーフードをほとんど食べなかった。


アンカレッジまで戻る列車の時間までまだ時間がある。
しばらく土産物屋を見て回るがめぼしいものがなかった。

夕食は列車の中になるので食事を用意しなくてはいけない。
食事をしたレストランはハーバー近くだが、周辺にスーパーが見当たらないので街の入り口まで戻る。

スーパーの前で自転車から降りると、おっさんに話しかけられる。
「あんたさっき見たよ。雨の中ハイウェイ走ってただろ?」

毎度おなじみの会話だが、こういう会話も最後かもしれないとおもうと少しさびしい。

スーパーでは安かったトビコの巻き寿司とポテトチップス、ビールとウィスキーを買った。
巻き寿司はまだマシなクオリティだったが、握り寿司は商品とは思えないぐらいぐちゃぐちゃで笑えた。





鉄道の駅には2時半ごろ着いた。

寒い。

午前中、雨の中走り続けたせいで服がぬれたままだ。
乾いた服に着替えて、ウィスキーを口に入れるがあまり温まらない。
よほど体温が下がってしまったらしい。

もう一度街を一周しようかと思ったが、
雨の中出歩く気にならず、列車の出発まで待った。

スワードの駅舎。web上より転載

スワード半島を走った数日間はアラスカの余韻といった感覚だった。
ダルトンハイウェイを北極海まで行き、帰国までの残された時間をどう過ごすか。

厳しい環境の中、強烈な経験となったダルトンハイウェイの旅の後で
気候も比較的温暖なスワードハイウェイの旅は極北とは違ったアラスカの自然を教えてくれた。
天候こそ恵まれなかったかもしれないが、穏やかな旅だった。

今思えば、ダルトンハイウェイよりも気負いなく旅ができて、自然体の旅であったと言えるかもしれない。





午後6時になって列車が出発した。

しばらくして車窓を見ると14マイルのマイルポストが見えた。
スワードから14マイルである。
そうだ、午前中ハイウェイがぐっと上って線路を越えたが、ここだ。
踏切になっておらず、高架になっているのをうんざりして上ったのを思い出す。

午前中の出来事なのにもっとずっと前のことに思えた。


鉄道の旅はそれほどの感動もなく過ぎて行った。

それでも一度、正面にグレイシャーが大きく見えたときには感動した。
午後9時くらいに撮影した動画を見ると外が薄暗い。

白夜が終わったとはいえこのくらいの時間まで明るかった。



アンカレッジに到着した。

スケジュール通り午後10時過ぎに到着した。
自転車は貨物車両にサイドバッグと別に積まれていたが、
自転車が先に出てきた。

照明が明るく照らすホームに荷物がどんどん積まれていく。
ホームだけ明るい。

結局サイドバッグは一番最後に出てきた。


雨の中、鉄道の駅から予約をしてある宿、スピナードホステルへ向かう。
アンカレッジ滞在は全部スピナードに泊った。

フェアバンクスから戻ったときもそうだが、
駅のある市街地から空港近くのスピナードに行くのに自動車専用道路があり
スピナードに行くのに苦労した。


スピナードに到着。フロントはしまっていたが、
階段に名前の書いたメモがあり、部屋と指定のベッド番号が書いてあった。

少し前に着いたのだろうか、日本人の客が困った様子で立っていた。
あきらかに年上の男性だったが先輩面して話す。
カードも使えるがキャッシュのほうが安いこと、などなど。
男性は自分のメモを見つけると部屋へ消えていった。


部屋に荷物を置き、シャワーを浴びる。
今回はベッドが下で楽だ。
久しぶりのベッドでリラックスする。


明日は溜まった洗濯をしよう。
明日は荷物を整理しよう。
明日は土産を買って物欲を満たそう。
明日は米を炊いて食おう。

明後日の朝、ついに帰国だ。



2013年11月19日火曜日

リス、ブラックベア、白頭鷲  2006年8月17日

朝目覚めると、外は曇り模様。
テントを畳むとキャンプ場のオーナーの家の玄関を叩いた。
昨日の夜、食料の入ったバッグを預けたのだ。
私営のキャンプ場でクマが出る恐れがあるところで
ソフトシェルのテントで泊る場合は当たり前のことだ。
 
 
 食料の入ったバッグを受け取るとキッチンスペースでコーヒーを入れるため湯を沸かす。

朝食の支度をしているとリスがやってきたので、かわいいな、
とその様子を見ていたらマーガリンの入れ物を齧りはじめた。
 
 「コラ!」と私が手で追い払うとどこかに行ってしまったが、
すぐに戻ってきて今度はトーストを持って行こうとした。全く油断ならない。
 
 
いたずら者のリス。リスぐらいならかわいいものだが。。
こういう動物はどこにでもいる。
 
きっとキャンプ場の客にエサをもらっているのだろう。
 
安易な考えでエサをあげてしまう軽率な人間にうんざりする。
ちなみにこの旅の数年後訪れたオーストラリアのタスマニア島では
国定公園の駐車場でワラビーにカツアゲにあいそうになった。
人慣れした野生動物が一番危ない。 
 
 
居心地のよかったキャンプ場を後にし、Portage Glacierへ向かう。
天気は相変わらず、曇りだ。
 
ただ道も舗装路で走りやすく、自転車で走るには悪くなかった。 
 
Portage Glacierに続くトンネルの手前で前からやってくる車が
窓を開けて私に何か叫んでいた。
 
なんだろう?と思っていたが次に来た車の人の声がはっきり聞こえた。
 
"Be careful!Bear!"
 
 
私は思わずブレーキを掛け止まった。 
 
 
クマ! 
 
 
ブラウンか!ブラックか!
 
いずれにせよマズイ。
 
どうしたものか…引き返すか。
道を横切っただけでもういないかもしれない。
いや、むしろこちらに向かってるかも。
 
一瞬パニックになりながらもとりあえず、
サイドバックのポケットからベアスプレーを取り出し、
レインジャケットのポケットに差した。 
 
少し迷った後、結局そのまま進むことにした。
 
 
果たしてクマはいた。 
 
 
 
ブラックベアだ。
 
 
 
なるほど、ブラウンベアとは明らかに違う。背中にコブがない。
何より大きさが違う。遠くてよくわからないがあれは子グマのようだ。

それにしてもあの至近距離で写真を撮っているオッサンは大丈夫なのか?


森から出てきたブラックベアの子供


私がひとりであたふたしている一方で
クマは特に周囲に気にするわけでもなく、悠々としていた。

そのときはさっぱり気が付かなかったが、写真を見るとあのとき周囲に観光客が写真を撮っていたのがわかる。車の観光客はのんきなもんだ。


とはいえ私も写真が撮りたいので、無謀なオッサンのうしろから写真を撮った。
ビビりすぎだとバカにされるかもしれないが、
至近距離で写真を撮っているオッサンがどうかしてるのであり、
これまでクマやオオカミの恐怖の中で旅をしてきた私からすれば、この距離が限界だった。

正直、万が一の際は、オッサンが襲われるのが先だと思っていた。

写真を撮り、カメラをハンドルバッグにしまうとペダルをいっきに踏み、
ブラックベアの前方を通り抜ける。

ちょうどブラックベアのいる茂みの前を横切るとき、茂みの奥にもう一頭見えた。
手前のよりずいぶん大きかった。母クマだろう。

私は興奮状態のままトンネルを抜け、Portage Lakeへ。






Portage Lakeから見える氷河は立派なものだったが、数ヶ月前にニュージーランドのFox GlacierとFranz Joseph Glacierに相次いで登った後だったので、氷河を見た!という感動はあまりなかったが、海に氷河のかけらが浮かんでいるのを見つけて、おぉっと思った。




湖畔のビジターセンターに行く。
ビジターセンターにはクマの警告とエサを与えるなという注意。
それから周辺の街の気象予報。

まぁお約束の光景だ。


赤白の線がスワードHwy。赤の線がJohnson Pass Trail

カウンターの女性にJohnson Pass Trailの情報を聞く。
このトレイルはちょうどスワードHwyから分岐し、再びスワードHwyに戻る道で
帰国までの限られた時間で寄り道にならないいいルートだった。

ニュージーランドではいいトレイルを走ることができたのでもし行けるならアラスカのトレイルも行きたいと考えたのだ。


そこでそもそも自転車で行けるか確認したかったのだ。
場所によっては自転車禁止の場合もある。

「自転車でいけるかって?あなたマウンテンバイク?なら大丈夫よ。」と
その女性はあっさり言った。


いいじゃないか。

私はビジターセンターを後にした。


風はback wind。しばらくいいペースで進む。


河原のビューポイントで川をみると中州に大きな猛禽類が見えた。


白頭鷲だ。




大きい。数百メートル離れているはずだが、
その大きさと無駄のないしっかりとした躯がはっきりとわかる。

アラスカで見ることができるとは全く考えていなかったので
この出会いには単純に感動した。私はこの出会いに感謝した。


しばらくして白頭鷲は翼を広げた。
翼を広げるとさらにその大きさが際立った。

一度大きく羽ばたくとそのまま川の上を低く飛び去って行った。

私は白頭鷲が見えなくなるまで見送った。




Johnson Pass Trailの入口に来る。
道はいわゆる普通のトレイルだ。登山道の入り口といってもいいかもしれない。


荷物満載のマウンテンバイクで数百メートル走っていくと思ったより走りにくい。
荷物がなければいけるような気もするが、この状態では難しそうだ。

いつか純粋にマウンテンバイキングをしにこのトレイルを走りたいな、と思った。
アンカレッジから比較的近くてアラスカ鉄道も走っているから短期間でも行けそうだ。


そう思って引き返そうとすると大きな糞が数個転がっていた。

大きい。ムースかクマか。この際どっちでも結論は変わらない。
「ハイウェイに戻るか」 私はハイウェイに戻った。



その後はハイウェイはしばらく登りが続いた。そして追いうちをかけるように雨が降り始め気が滅入ってくる。

辛いからと言ってペダルを踏むのを止めれば先には進めない。
だましだまし走る。


Summt Lakeというところでレストランがあったので休憩。
コーヒーとチーズケーキを注文する。


数ヶ月前、ニュージーランドを一時ともに旅をしたスイス人が
「シマ、あなたいつもチーズケーキばかり食べているわねぇ」と言っていたのを思い出した。

彼女は今どうしているだろうか。
また手紙を書こう。


レストランで支払いをするとき、チップのことをさっぱり忘れていたが
「釣りはいるか」と店の若い男性に言われ「要らない」と答えた。
こういうどうでもいいことははっきり覚えていたりするものだ。


サミットレイクから今日の目的地Moose Passまでは下り基調。
気合を入れてペダルを踏む。


ムースパスに到着。
キャンプ場での支払いをしようとすると小銭がなくて払えず、
向かいのジェネラルストアで買い物してお金を崩す。
ここは感じの悪い店だった。一日走って疲れたあとにはよくない。

ただ、その前に寄ったリカーストアの年配の女性は感じがよかった。
妹が沖縄生まれらしい。


キャンプ場は森の迷路のような作りで、水場が見つけられなった。
疲れていたので水場はあきらめ、今朝、昼食用に作ったサンドイッチの残りと
インスタントラーメンで夕食を済ませ、ビールとウィスキーの時間へなだれ込んだ。


本格的にアラスカで走るのは明日が最後になる。
天候は相変わらずのようだが後悔しないよう走りたいものだ。

2013年10月22日火曜日

キーナイ半島の自然 2006年8月16日

北極海を離れてからずっと天気が悪かった。
雨は降ったり止んだりを繰り返した。
 
一説には帰国まで断続的に続いたこの雨は日本からの影響という説があるが定かではない。
 
雨の中、ベトベトのままテントを撤収。朝からいい気持ちはしない。
帰国の時にもこのスピナードホステルに泊まる予定だが、
値段も考えると相部屋の宿泊が無難だ。
 

キーナイ半島の位置


残った日程は三日。
アンカレッジからスワードという街までスワードハイウェイを走ることにした。

今回もアンカレッジ中央部から郊外に出るまで一時間以上かかった。
自動車専用道があったりしてハイウェイと自転車の相性が悪い。
横に自転車道を作れば済む話だと思うのだが、そこまで需要はないのだろう。

スワードHwyに乗るまでそのそばを走るOld Seward Hwyを行く。
アラスカの基準でいえば狭い道路だが、交通量もそこそこで行くにはちょうどよかった。



アンカレッジから続く海。極北の海より穏やかに見えた

道はやがてスワードHwyと合流した。
終日曇り空だったが、スワードハイウェイは大都市アンカレッジから観光地に向かう道だけあって舗装はきれいで休憩所も多く、全てが旅人にやさしかった。



何もなく、荒れたダルトンハイウェイを走った後ではなお更そう感じた。


南部と北部では大きく自然が違う、ということに気が付いた。
どちらも自然が濃いが、北部のそれは、短い夏を必死に生きているのが伝わってきたが、南部のそれはもっと大らかな、豊かな自然がそこにあった。

ビーバーの姿が見えなかったがビーバーダムがあった。

川には多くのサーモンが見られた



花が咲いている。
雨にぬれる淡いピンクのポピーの一輪がとてもうれしかった。


道端に咲くポピー


道は途中からバイクトレイルになる。
キャンプ場の横を通るが、閉鎖されていた。

「Go North Hostel」でニュージーランドから来たジョッシュとメレウィンとクマの話をしていたとき、隣にいた男が新聞を投げてよこして「毎年、一人ぐらいキャンプ中にクマに襲われて死ぬんだ。今年はもうキーナイ半島で一人やられたみたいだから今年はもう大丈夫だろう」とあまり納得のいかない説明をしていたのを思い出した。

キャンプ場閉鎖の看板とともに今年の事故についても書かれており、どうやらこのあたりで事件が起きたことが分かった。

 クマは怖かったが、バイクトレイルの周辺はたくさんのラズベリーが実っており、私は夢中になってベリーを集めた。


袋一杯に集まったラズベリー




ベリー狩りを楽しんだ後はひたすら向かい風と戦っていた。

スピードが時速8枚マイルまで落ちる。

キャンプ場手前のクリーク。淡い乳白色の水が美しくて何枚も写真を撮った
キャンプ場入口の橋から。クリークの水は氷河から来るらしい

夕方五時ごろ、当初の予定していたキャンプ場とは違うがちょうどいいところにキャンプ場があったので今日はここに宿泊することにした。

キャンプ場は1泊20ドルと少し高め。
これまでの相場は15ドルぐらいだからちょっと悩む金額だった。
しかし、これまで泊ったアラスカの民間のキャンプ場と比べてもでもここはかなりよかった。
ニュージーランドのキャンプ場はたいていキッチンスペースで水と火、もしくは電気の調理器具が使えることが多かったが、アラスカではランドリーはあってもそうしたことはほとんどなかった。

調理器具はちゃんと持っていたが、ガスカードリッジ(英語ではgas canister)は昨日宿泊したスピナードホステルのフリーラックに置いてあった誰かの使いさしのものを一個持っていただけだったので、ガスの心配をしないのはありがたかった。
 

キャンプ場のキッチンスぺース

チェックインをしてクマの情報を確認する。
このあたりはブラックベアしか出ないが、用心はしてほしいとのこと。
また、食糧のバッグは預かるので夕食が終わったら持ってきてほしいと言われる。
朝は早く食糧を取りに来ても大丈夫らしい。

途中で採ったベリーを見せて念のため食べられる種類か聞くと、ラズベリーとサーモンベリーで問題ないと教えてくれた。


天気は曇りだったが、風があったので今朝ドロドロのまましまったテントを乾かしていると風で飛んで行ってしまい、あろうことか水たまりに着水した。


一日走った後の疲れと相まって、かなりぐったりしたが30分ほどかけてテント全体を何となく乾かした。


私がテントで苦戦している間にファイアーピットにオーナーが焚火を起こしてくれた。
写真で見ると小さいがこのファイアーピットはかなり大きく、オーナー入れてくれる薪がまた大きかった。実にアラスカ的だ。


当日の日記を引用する。
「今、焚火の前で日記を書いているが、実はかなり寒い。吐く息が白い。でもいい時間だ。このままずっといたい。」


実際、フリースを来て、ウィスキー片手に焚火の前に座っていた。そうしていないと寒いのだ。


寒い。でもこの心地よさはなんだろう。
焚火の前にいる。ゆれる炎と時折はじける薪を眺めていると時間を忘れる。
他のキャンパーがたまに通るが、私が自分の時間を過ごしているのを理解してくれるのだろう、「ハイ」と軽く声をかけてくるだけだった。



日本にはなかなかない、静かなキャンプ場。
焚火が気軽にできるキャンプ場は皆無に等しい。
こうやってパブリックスペースにすればいいのに。

もっとも、アラスカのキャンプ場には日本のキャンプ場にない「BEAR WARNING」の看板があるのだが。。


2013年10月16日水曜日

Alaska Railroad 2006年8月15日

旅のスタート、アンカレッジまで戻ることになった。
帰国までの数日間、キーナイ半島で過ごすためだ。

フェアバンクスからアンカレッジまではアラスカ鉄道で移動することに決めた。

バスと飛行機という手段もあったが、
ニュージーランドから帰国する際、
南島の西海岸の果てHaastというところからQueenstownに移動する際に
激しい車酔いに襲われた記憶が新しく、丸一日のバス移動は乗り気になれなかった。
また、飛行機はコストが高いのと自転車の梱包が面倒なのですぐに選択肢から消した。


アラスカ鉄道のBordingPass
いや、それより何よりアラスカ鉄道に乗ってみたかった。


私は鉄道マニアではないが、鉄道の旅は昔から好きで
国内でも学生時代には夏と冬の18切符を使い切るぐらい輪行していた。

とはいえ、アラスカ鉄道に乗るというのは
アラスカに行ったらやりたいことリストではあまり上位ではなかったが
これは経験することができてよかったと思う。


フェアバンクス発アンカレッジ行きは
フェアバンクスを8:15に出発し、終点アンカレッジ到着は20:00。

丸一日の旅だ。


Fairbanks駅


駅のエントランスで


 フェアバンクスの駅でチェックインをする。
自転車は別料金がかかった。ただ、そのまま載せてくれるので面倒がなくていい。


 


列車が走りだした。
日本の列車に比べると走る速度がのんびりだ。

470マイル、750キロを12時間かけていくのだからのんびりだろう。

距離からすれば東京~岡山ぐらいで、
実際新幹線を使わないで行くと同じぐらい時間がかかるようだが
駅の数がそもそも違いすぎる。
アラスカ鉄道は10駅程度しかない。



正直、はじめは遅いと思ってしまったが、日本の鉄道の速さが異常なのだろう。
アラスカ鉄道が観光鉄道ということもあるから当然ゆっくりというのもあるかもしれない。
日本の社会は急ぎすぎだ。

屋根がガラス張りの展望車両


アラスカ鉄道はフェアバンクスからデナリを通り、アンカレッジに至る。
つまり、私がアラスカの旅の前半で走ったパークスハイウェイをほぼ並走するルートだ。
しかし、ときおり現れる建物群がどこの街かわからなかったりすることがある。
鉄道とハイウェイの旅では見え方が違うものだなと思った。



鉄道の旅にアルコールはかかせない

しばらくしてビールの栓をあけた。
これまでの旅について振り返った。

ダルトンハイウェイを走破して、何だがいまいち実感がない。
変な感じだが、実際そうなのだ。

旅の困難をいくつも思い出す。
本当にガムシャラだった。

ただ、北極海へデッドホースに辿り着くことだけを考えて前へ前へ進んだ。
それだけだった。
日本に戻った後、こんなに単純にガムシャラになれるだろうか。

答えは出るわけもなく、車窓を流れていくアラスカの景色を見ながらバドワイザーを飲んだ。


車掌の若い女の子と乗客の老夫婦の会話が耳に入った。
多くのアラスカ鉄道の社員はアンカレッジかフェアバンクスに住んでいるらしい。

また車掌にはアラスカ鉄道の懐中時計が支給されるらしく、
車掌の女性は懐中時計を掲げて見せてくれた。
なんだかうらやましい仕事だな。

ふと冬のアラスカ鉄道にも乗ってみたいと思った。



列車がアンカレッジに着いた。
白夜が終わったとはいえ、アンカレッジは午後8時でもまだ日暮れといった感じだ。

初日と同じスピナードホステルを予約してあったので自転車で向かう。


途中、自動車専用道路を避け自転車道を行くが途中で道がなくなる。
階段をなんとか自転車を押して降りていくと 公園に出てた。


そこでムースの親子に出会った。



 さすがだな。
大都市の真ん中でムースが普通に木の葉っぱを食べている。

この時間の迷子には参ったが、おかげでいいものを見ることができた。
これで出会っていない大型動物はブラックベアとジャコウウシぐらいだが、
ブラックベアには会わなくていいな。


少し迷子になったもののスピナードに到着。

スピナードでは今回、部屋ではなく、
庭のキャンプサイトに泊ることにしたが
地面が泥でテントが汚れてしまった。これで19ドルは高い。
帰国前は前のように相部屋を取るべきだな。


少し天候がよくないが明日からのキーナイ半島の旅を楽しむことにしよう。